治承四年(一一八〇年)頼朝の挙兵に応じ、義経は兄範頼と共に平氏討伐の軍を進め木曽義仲を討ち平氏を追って一の谷、屋島、壇の浦に戦いこれを滅ぼした。この間頼朝に無断で左衛門少尉、検非遺使に任命された事から頼朝との間に不和が生じ更らに梶原景時ら関東御家人とも対立したので頼朝の追求を受けることになった。そこで叔父行家と共に頼朝に返逆をくわだて、後白河法皇にせまって頼朝追討の宣旨を得、挙兵したが失敗し諸国を流浪し再び秀衡を頼り奥州落ちのやむなきに至った。この淋しい旅にも当新庄市大字鳥越から休場を越え、「亀割峠」に至って喜びが訪れた。それは北の方がにわかに産気付き丈夫なわこを安産した事である(亀若丸)、時に文治二年(一一八六年)旧三月十五日山桜は山一面に咲き乱れ一行を祝福するかの様であった。悲劇の英雄義経には常に神明の加護がつきまとう。豪雄弁慶が大薙刀の石突でついた岩から出湯がこんこんと湧き出し無事亀若丸にうぶ湯を使わせる事が出来た。この出湯は現在の瀬見温泉の由来に連なる物語でもあります。