歴史

新庄まつりの歴史

江戸中期の宝暦5年(1755)、凶作飢饉に見舞われた新庄領内では多くの餓死者が出て、これに心を痛めた時の藩主(五代)戸沢正諶は、領民たちを励まし、五穀豊穣を祈願するために、戸沢家氏神の天満宮の「新祭」を命じました。

翌年(1756)から始まったまつりでは、天満宮の神輿が領内を巡行し、町方にはお触れを出して、それぞれが趣向を凝らした飾り物を出すよう仰せつけ、飲酒や賭け事などの取締をゆるやかにしました。気力を失っていた人々は、競って飾り物を作り、華やかな着物に身を包んでまつりに加わりました。城下には見世物や出店が出て、近在からまつりを見に来た人々で大層な賑わいをみせました。

山車は、城下の町人町ごとに作られました。文献によると開始から20年後には、町内から14台もの山車が出ており、そのうち9台が歌舞伎の名場面を模したもので、すでに現在に近い形の山車が作られていたようです。

当時は毎年の開催ではなく、藩主が参勤交代で江戸勤番の時には行われず、藩主が在城の年、隔年ごとに行われていました。

幕末には、戊辰戦争で新庄城下は焼け野原になったものの、遅くとも明治3年(1870)には復活しています。明治20年(1887)の山形新聞によれば、当時のまつりの中心は神輿行列で、順序も山車が先で神輿が後であったと記されています。大正時代も順序はそのままで、ほかに仮装行列や花相撲も行われていました。

昭和に入り、世界恐慌や満州事変、凶作など波乱が続いたものの、まつりはかなり盛大に行われたようです。やがて太平洋戦争に突入し、戦火が激しくなるにつれ、物資の不足や当局の指導もあり、止むなく中断となりました。

しかし戦後の混乱の最中、昭和21年(1946)には復活しています。山車は沖の町が作った「羽衣」たった一台でしたが、食料も物資も事欠く中、一台とはいえまつりの復活は、ようやく訪れた平和に対する安堵の気持ち、そして新しい時代への希望の表れだったのではないでしょうか。新庄市が誕生した昭和24年(1949)には、市誕生を祝して16台もの山車が出て、仮装行列なども賑々しく行われました。

また翌年には、城内天満宮祭典を「新庄まつり」と名を改め、昭和33年(1958)には初めて夜間照明付きの山車が市内を巡行しました。

以降、中断されることなく続けられている新庄まつりは、途中、題材を映画やテレビ番組から引用したこともありましたが、現在では伝統的なまつりへの回帰が顕著になっています。

昭和58年(1983)に開館した「ふるさと歴史センター」には2台の山車が、また平成11年(1999)に開館した最上広域交流センター「ゆめりあ」に一台、常時展示されています。

平成3年(1991)には山車・囃子が東京「隅田川まつり」と大阪「御堂筋パレード」に、翌4年(1992)には東京「日本橋・京橋まつり」に参加、現地の人々に強い印象を与えました。さらに平成7年(1995)にはオーストリア・ザルツブルクで開催されたヨーロッパジャパンウィークにも参加。歌舞伎などを題材にした山車は、エキゾチシズムに溢れ、現地の人々に深い印象を残したものと思われます。

また平成14年(2002)には、金山町で開かれた全国植樹祭に参加し、ご臨席された天皇・皇后両陛下にご覧いただきました。翌日には「ふるさと歴史センター」にお立ち寄りになり、展示中の2台の山車もご高覧いただく栄誉にあずかりました。平成17年(2005)、250年祭として、史上初めて4日間のまつりを開催しています。

そして、平成21年(2009)3月11日、東北地方の日本海側に伝承されるわが国の山・鉾・屋台の祭りの変遷を知る上でも重要であることから、「新庄まつりの山車行事」が国重要無形民俗文化財に指定されました。