白虎隊は幕末に会津藩士の十六~十七歳の少年が、家格別によって三大隊に編成されたもので総員は三四三名であった。一八六八年(慶応四)八月、新政府軍は、母成峠を破り進軍して来ると、前藩主松平容保は、会津軍の将士の志気を鼓舞するため、滝沢本陣に出陣、白虎隊も警備に同一行した。本陣に着いた時、戸の口原から援軍の要請があり、容保は白虎隊士中二番隊に出撃を命じた。そして、新政府軍と激闘、しかし近代兵器の前には勝てず、いつしか、隊は孤立していた。二〇人位で飯盛山を目指し、滝沢山麓から戸の囗堰の洞門をくぐり城下が見える所まで退却したが、眼下の会津城の方に黒煙があがるのを見て、城も攻め落とされたと思い込み十九名が自刃した。死にきれなかった飯沼貞吉は、印出ハツという足軽の妻によって助けられ、背負われて塩川本陣に運ばれて喉の突き傷を治療され、生き延びて白虎隊の悲劇を伝えた。