慶長五年、天下分け目の合戦「関ケ原の戦い」が始まる中、出羽の地で上杉と最上・伊達連合の間でもう一つの関ケ原と呼ばれる「慶長出羽合戦」が始まりました。 直江兼続率いる上杉軍は、大軍により長谷堂城を力攻めしていましたが、留守政景、鮭延秀綱らの最上軍の奮戦により、攻め落とせずにいました。 そんな中、石田三成串いる西軍が徳川家康率いる東軍に大敗したとの知らせが兼続にもたらされます。それを聞いた兼続は自害しようとしますが、前田利益に諌められ撤退を決断します。 最上義光も関ケ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転し、最上・伊達連合軍は追撃を始めたのでした。