独眼竜の異名をもつ伊達政宗は、奥州の覇者というべき存在でありました。五歳の時に疱瘡にかかり右目を失ったことは、幼少の政宗(梵天丸)にとって、とても辛い出来事であった はずです。師である虎哉禅師は厳しく教育し、強情我慢とへそ曲がりの教えを説き、目立つ己の姿を逆手にとり、派手な行動を起こしました。 豊臣秀吉に一揆の扇動者であると疑われ弁明のため参上した政宗は、白装束だけでは通用しないと思い、金箔の十字架を掲げて現れ。秀吉だけでなく民衆をも驚かせました。一揆扇動の書状が、花押に針の穴のない偽物と主張し、面白いと思った秀吉は、豊臣政権に利益があるとし、無実の判決を下します。 片目である劣等感を合戦、政治、文化へと昇華し、晩年には三代将軍徳川家光の副将軍的な後見役の地位まで与えられたのでした。