紀伊国加田浦に生まれ十八才にて邑長(村長)になった文左エ門は廻船問屋とは名ばかりの貧乏な生活が続いた。
二十六才の冬紀州地方は天候に惠まれ「みかん」の大豊作であったが一方江戸では連日の荒天に海は荒れ紀州からの船が届かず名物の「ふいご祭」に撤く「みかん」がなく大困りであった。比の事を耳にした文左エ門は明神丸と云う千石積の船を修理し「みかん」を買占め船に積み込んだ。折から「大しけ」のため船頭が集まらず、やっと集めた命知らずの船頭七人を乗せ江戸に向って船出する。
此の場面は船出の時に決死の覚悟で伝家の宝刀で船の錨り綱を断ち切らんとし一方では妻の父親が航海の安全を祈願したお守りを船に届ける場面です。
彼の熱意と神仏の加護に依り見事紀州の灘「大しけ」を乗り切った文左エ門は江戸の商人達を相手に一歩も引けを取らず「みかん」を売りさばき、又帰りには塩さけを買占め往復の商で巨万の額をもうけ、後に江戸に出て材木商を営む一方紀州みかんの商売に成功し、豪商としての地位を築き、江戸随一の大金持ちになったと云われて居る。
二十六才の冬紀州地方は天候に惠まれ「みかん」の大豊作であったが一方江戸では連日の荒天に海は荒れ紀州からの船が届かず名物の「ふいご祭」に撤く「みかん」がなく大困りであった。比の事を耳にした文左エ門は明神丸と云う千石積の船を修理し「みかん」を買占め船に積み込んだ。折から「大しけ」のため船頭が集まらず、やっと集めた命知らずの船頭七人を乗せ江戸に向って船出する。
此の場面は船出の時に決死の覚悟で伝家の宝刀で船の錨り綱を断ち切らんとし一方では妻の父親が航海の安全を祈願したお守りを船に届ける場面です。
彼の熱意と神仏の加護に依り見事紀州の灘「大しけ」を乗り切った文左エ門は江戸の商人達を相手に一歩も引けを取らず「みかん」を売りさばき、又帰りには塩さけを買占め往復の商で巨万の額をもうけ、後に江戸に出て材木商を営む一方紀州みかんの商売に成功し、豪商としての地位を築き、江戸随一の大金持ちになったと云われて居る。