重臣達を全国各地に遠征させて、織田信長はわずかの手勢とともに、京の都、四条西洞院の本能寺に宿をとった。山陰攻めを命じられて帰城七でいた明智光秀は、丹波亀山から出陣し、国堺の老の坂に至ってきびすをかえし、「敵は本能寺にあり」と一万三千の軍に号令を発した。夜とおし進軍させ桂川を渡って入京、たちまち本能寺をとり囲んだ。鉄砲の音で襲撃を知った信長は、みずから弓をとり槍をもって、森蘭丸らの近臣とともに防戦したが、凡そ百倍の軍勢には叶わず、寺に火を放ったすえ自刃した。戦国の世、天正十年六月二日明け方のことであった。明智光秀はこの日から、毛利と和睦して戻った豊臣秀吉との山崎の合戦で敗れるまでの間、「三日天下」のはかない夢を手中にすることとなったのである。