時は元禄十四年、五代将軍綱吉が治世。播磨國赤穂藩主浅野内匠頭は幕府より勅使饗応役を仰せ付けられ指南役吉良上野介の度重なる嫌がらせに腹を据え兼ね、当日三月十四日殿中松の殿下にて刃傷に及んだ。謹慎間もなく即日所領召上げ、身は切腹、上野介には咎なしとする喧嘩両成敗に相反する裁きに、大石内蔵助以下義士等は納得せずに御家再興を計りながら約一年九ヶ月の月日を要し仇討の手筈を整えていく。元禄十五年十二月十四日吉良邸に討ち入り参じたる内蔵助以下四十七士は炭小屋に潜む上野介を庭前に引い出し、今まさに討ち取らんとする内蔵助言そして側には、息子主税、まだ十六歳の若さ義士の姿も、主君の志を継ぎ、主君への忠節を尽し、武士道の赤心を貫き見事本懐を成就したる吉良邸討入の名場面。四十七士の真情が、三百年の時を経た今、蘇ります。