徳川幕府中興の名君八代将軍吉宗が紀州の若殿時代腰元沢の井なる者に手がつき男子出生のあかつきには名乗り出でよとお墨付と守り刀を与えられ感応院門前に住む母親方にて出産を待ちたのが不幸にして難産のため親子共に死亡。十数年後……時に感応院の仏弟子にて法沢なる者が、たまたま老婆より「生れて居ればお前と同じ年であり今の将軍の実子として次の将軍にもなるべきを」と墨付と守り刀を見せられ悪心をおこし老婆を殺し御家人伊賀亮と結託し徳川吉宗の実子として名も徳川天一坊と称し親子対面を願い出る。吉宗は一世の名奉行大岡越前守にその取調べを命じた処越前守は天一坊を一見して謀叛人の兆あるを看破しないしないにて池田大助等に命じ天一坊の素性並証拠の品を調べ挙げ天下の大罪人として天一坊伊賀亮を召捕り将軍家の安体を計つた。