巴は、木曾四天王の一人今井兼平の妹で容貌一際すぐれ荒馬乗りを得意とし弓矢打物取っては、いかなる鬼神にも立ち向かうという一騎当千の勇婦であった。
治承四年九月、木曾義仲は源行家から以仁王の令旨をうけ、頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げる。
猛虎の勢いで京都に責め上るが軍規を欠き粗野な行為が人望を失うこととなり後白河法皇の「義仲追討」の院宣により源義経、範頼から遂に追撃をうける身となる。
寿永三年正月二十一日、義仲は衆寡敵せず近江田粟津で女子と死をともにするのを、いさぎよしとせず巴(二十八歳)と決別した直後に討死したという。
巴は、剛妻烈婦として知られる半面、戦野では屡々嫡子義高(寿永二年三月、頼朝との不和を解消するため十一歳の義高を質子として鎌倉に送る)の名をロにして哀涙にむせんだともいわれ、母情も後世の語り草となっている。
治承四年九月、木曾義仲は源行家から以仁王の令旨をうけ、頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げる。
猛虎の勢いで京都に責め上るが軍規を欠き粗野な行為が人望を失うこととなり後白河法皇の「義仲追討」の院宣により源義経、範頼から遂に追撃をうける身となる。
寿永三年正月二十一日、義仲は衆寡敵せず近江田粟津で女子と死をともにするのを、いさぎよしとせず巴(二十八歳)と決別した直後に討死したという。
巴は、剛妻烈婦として知られる半面、戦野では屡々嫡子義高(寿永二年三月、頼朝との不和を解消するため十一歳の義高を質子として鎌倉に送る)の名をロにして哀涙にむせんだともいわれ、母情も後世の語り草となっている。