元亀三年(1572年)、本願寺や越前朝倉氏など、反信長の動きに同調した武田信玄は、織田・徳川領への侵攻を開始、三河・遠江の諸城を次々と落していった。対する徳川家康は武田軍の下へと出陣、先行していた本多忠勝、内藤信成らが武田軍と遭遇し戦闘が発生した。武田軍は撤退する先発隊を追撃、徳川軍も撤退を決めた。本隊の撤退を助けるため、本多・内藤らは、殿として街道に火を放って時間を稼いだ。さらに一言坂で武田軍を迎え打ち、徳川軍は撤退を果たす事ができた。この戦いの後、本多の武功が高く評価され、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」と称されるようになった。また、一言坂の戦い古戦場跡の近くには「一言観音」と言われる観音像が鎮座。一生に一度だけ願いを聞いてくれると伝えられる観音であり、徳川家康が退却戦の無事を願ったとの言い伝えがあります。