鎌倉の頼朝の所へ平家遂討が後白河法皇により下る。頼朝は、弟範頼、義経を対象に西上させる。義経は、一の谷の陣に立てこもる平家の一門をひよどり越えより攻めました。おどろいた平家の一門は、屋島へ逃げる中に一人残り戦う武者一駒、早これまでと波打ちぎわまで来た時残敵をけちらしながらはせ来た一人の武者に「逃げるはひきょう返させ給え熊谷次郎これにあり、見参見参」と呼び返され戦うが力尽きついに組みしかれ、熊谷は若武者をひきすえ、顔をよく見れば年の頃十五六、名を聞けば「我こそ参儀経盛の末子敦盛」と名のる。熊谷はそのけなげさにうたれ早く逃げるようにとすすめている所へ、後の山より平山武者所「熊谷こそは平家方の大将を組みしきながら助くる二心にきわまったり」と呼ばれる声に、今はこれまでと、敦盛の首を打ちました。