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天満宮御祭礼御行列牒

天満宮御祭礼御行列牒とは

「御城内天満宮御祭礼御行列牒」(大蔵村南山柿崎家文書)は、天満宮の祭礼が始められた56年後の文化9年(1812)柿崎弥左衛門によって記された書物で祭り行列全体を詳細に記録した史料です。

天満宮御祭礼御行列牒(新庄ふるさと歴史センター所蔵)

表紙に「文化九年申ノ七月廿五日」とあるので、この年の天満宮祭礼は7月25日(旧暦)に行われたものであったと思われます。

本牒によれば、祭り行列の先頭に町同心が2名、次に町役人2名が立ち、この後に大太鼓が2つ続き、次に南本町の傘鉾屋台、同町の町印囃子屋台(「曲手満里人形」とあります)が続いています。
以下順次、北本町「源三位頼政鵺退治体」の飾り屋台、同町「豊年草取り囃子屋台」、清水川町「朝比奈三郎義秀勇力之体」、同町「囃子屋台座頭之体」等々、大太鼓の屋台を含め屋台17台が記されています。この内訳をみると、大太鼓の屋台1、傘鉾屋台1、囃子屋台8、飾屋台6で、屋台を出した町内は南本町・北本町・清水川町・金沢町・馬喰町・万場町・鍛冶町茶屋町(二町一体)の7町です。
各町内いずれも飾り屋台・囃子屋台各1台ずつ出しています。囃子屋台の次に飾り屋台というように両者交互に列をつくっている様子であるから、「囃子」の仕方は現在と違って屋台の上でだけ囃したものとみられます。

屋台行列に次いで「御行列」と記し、次に手習手供、鞍馬1疋、手習手供押、葛籠馬1疋、町役人・有力町人(2列に並び58人)の名を記してあり、天満神輿やこれに供奉する侍衆の名は記されていません。
従って、本牒の記載のみでは、神輿渡御行列があったものか否か明らかではありませんが、恐らくは、「御行列」がこれを表しているのではないかと思われます。
「神輿渡御行列」と記さなかったのは、記録者柿崎弥左衛門が天満宮の神威を憚って敢えて記さなかったのではないかと思われます。従って、本牒からは「神輿渡御行列」の内容をうかがう術もありませんが、この行列順序は、明治41年刊の『最上郡史』によれば、次のようです。もっとも、「郡史」は明治末期の発行であるので必ずしも藩政時代と同じというわけでではありませんが、およその様子をうかがう参考にはなると思われます。
これによれば、先頭に供奉の侍衆として、鉄砲10挺・玉箱・台弓5台、以上の押さえとして物頭、次に長柄10筋、この押さえとして長柄奉行、次に少し間を置いて猿田彦命、大鉾、法螺貝4口、次に「天満大自在天神」の大職一対、鉾一対、太鼓、榊台、少し離れて伊達道具一対、先挟箱一対、台笠、竪笠、鉄砲2挺、台弓1台、徒士10人、漉水遍照院、勤めの僧2人、金幣2個、次に神輿(これは白丁の者16人で担ぎます。中小姓8人が左右を固めます)、この後に鞍置きの神馬1疋、次に10歳以下の子どもたちが華美な服装で2列に並び、次に4、5歳以下の飾り子ども、さらに10歳前後の上下姿で松と梅の造花を持った御花持と呼ばれる子どもたち(男児の化粧をしているが女児が多い)、次に神輿の押さえとして自性院(これは先箱・長刀・先供駕籠・脇・伴僧など20人を従えます)、少し離れて葛籠馬、これに続いて町年寄以下の町人100人ほどが麻上下・股立・一文字笠の服装で供奉するとあります。以上が、藩政時代後期の天満宮祭礼の祭り行列の全体的姿と考えられます。その後の調査で、安政3年の「御祭礼帳」(新庄市佐藤家文書)が発見され、この年の祭礼の姿が明らかになりましたが、これによれば、この年は神輿渡御行列も屋台行列も賑々しく行われたようであります。ただし、屋台の台数やその内容は明らかではありません。

なお、藩政時代においては、ここには表れていませんが、他史料によれば、この祭りには新庄領全域の各村庄屋・組頭、城下町内の町役人が供奉すべきことが触れ出されていたことが知られます。このようにして、天満宮はひとり藩主戸沢氏の氏神としてのみならず、新庄領の総鎮守として全領民から崇敬され、この祭礼も領内あげての祭りとして盛大に行われてきたことが、各時代の史・資料からうかがい知ることができます。
ただし、祭りの形が宝暦6年以来全く変化がなかったということでは決してありません。例えば、当時、天満宮の別当職にあった円満寺住職宥勝が天保8年に記した「年中行事」には、天満宮祭礼は藩主の在城年に執行し、藩主が参勤交代で江戸勤番の年は行われないとあり、また、天保4年の如き大凶作の年は、藩主在城の年であっても、神輿渡御行列のみ行い、屋台行列は出されませんでした。