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豊年瑞相談

豊年瑞相談とは

豊年瑞相談は新庄・清水川町の福井富教が宝暦5(1755)年の大飢饉、翌年の天満宮祭礼の様子についてを記したもので、当時の新庄の様子を知る貴重な史料です。

豊年瑞相談(新庄ふるさと歴史センター所蔵)

これによれば、同年の祭りは天満宮の縁日である9月25日に行われました。この日、城内天満宮の神輿は、物頭・町奉行の指揮により、弓・鉄砲・長柄の衆に護られて、城内から市中に繰り出しました。これにお供して、各町内がそれぞれ工夫をこらして作り上げた「花笠鉾、色々の作物、風に和したる幡差物、御城を廻りて(中略)大手囗ち御町へ出る所、貴賎群集雲霞の如く並居て、(中略)、舞歌の拍手、鳴物の音、心を動す斗也」と、市中の賑わいを記しています。

同書は、また、「町々の子供等も装束おもひおもひの思い付を作れり」と記しているから、この祭りには子どもたちも美々しく着飾って祭り行列に参加したものと考えられます。あるいは、この子どもたちの行列は、文化9年(1821)に記された「御城内天満宮御祭礼御行列牒」に見える神輿の後についた「手習子供」の行列に似たものとも、また、他の史料にある「飾り屋台行列の飾子供」の類とも考えられます。いずれにしても、当時は、子どももこのような姿で祭り行列に加わったとみてよいように思われます。

なお、「色々の作物」・「鋳物」が後に発展して豪華な飾り屋台になったと記しましたが、城下の各町内が出す飾り屋台の内容が具体的に知られるのは、安永5年(1776)の記録が初見のようであります。これによれば、この年は、万場町が「神功皇后」の屋台を出し、金沢町は「田原藤太」、馬喰町は「子持山姥」、吉川町は「紅葉狩」、清水川町「西王母三人、漢の武帝へ桃を献ずる」、鍛冶町茶屋町「風流孔明二人」、北本町「花見西行」、ほかに遅沢庄右衛門が個人で「菅原実生梅」等々10台の飾り屋台、また、南本町の「はやし傘鉾」など囃子屋台が4台、計14台の屋台が出たことが知られます。ただし、屋台が「担ぎ屋台」であるか、「車屋台」であるかは明らかではありません。

飾り屋台にせよ、囃子屋台にせよ、それぞれの詳細は明らかとは言えませんが、このことからみると、天満宮祭礼の屋台行列は、囃子屋台を除いて、基本的には既にこの時代、現在とほぼ同じ形をとっていたことが明らかであり、意外に古いことがうかがい知られます。

この年の祭り行列全体の姿は、先頭に町同心が二流の大旗(幟か)をひるがえし、これに大太鼓二つが続き、この後に万場町以下城下の町人町が出した飾り屋台・囃子屋台の行列が続き、次に騎馬の侍や使役に護られた神輿の行列が続いていることが、同じ史料から知られます。神輿行列には、騎乗の侍のほか「手習子供二十四人、奴子、墨筆、槍、挟箱二つ、つゞら馬一通り」とあります。「手習子供」が供奉するのは、祭神が学問の神、菅原道真であることに関係することかと思われます。