奥州藤原氏は初代清衡以来三代、百年に渡リ名実ともに奥州を支配する存在となっていた、鎌倉政府による全国統治を進める源頼朝は潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。 一一八九年(文治五年)鎌倉方の圧迫に屈した藤原泰衡は源義経を自害に追いやり服従の意思を示したが源頼朝は奥州討伐の為に二十五万以上の兵力引き連れ鎌倉を出立する。奥州軍は総勢二万総大将を藤原国衝とし防衛線を伊達郡と刈田郡の境として阿津賀志山山麓(現在の福島県国見)に総延長三キロにも及ぶ三重の防塁を築き、阿武隈川の水を引き入れ迎え討った合戦である。