戦雲渦巻く永禄八年春、上洛の野望を持つ甲斐の武田信玄は嫡男勝頼を伴い、上杉謙信の関東の拠点である上州箕輪城を二万の大軍を率いて攻めた。箕輪城主長野業盛は、一千余の城兵と共に必死に防戦していたが、同年九月信玄は二万の武田軍に総攻撃の命令を出した。先陣を切ったのは猛将で知られた板垣駿河守信形である。攻防の末、落城も間近となったとき、城内より馬上豊かに疾走してきた若武者がいた。この若武者こそ長野家十六槍の一人上泉伊勢守秀綱であった。秀綱は味方の不利を何とか挽回しようと信玄の本陣に切り込みをかけるべく城からでてきたのである。待ち伏せしていた信形に秀綱が切られようとした時、突然神霊ともおぼしき大山猫が信形に襲いかかった。秀綱はその隙に難を逃れる事ができたが、箕輪城は数日後落城した。秀綱はその後、二君に使えず剣の道に励んだ。新陰流開祖、剣聖上泉伊勢守秀綱の若き頃の物語を山車風に演出しました。