慶弔十四年、琉球大国は薩摩の侵攻に敗れ薩摩藩の附属国となりました。
そこで、兄の啓泰は愛する琉球のため、独立した交易圏「南海王国」を建設しようと奔走します。
やがて、啓泰は琉球の宗主国が明から清へ移り変わるのを見届けると琉球へ戻りました。
一方、弟の啓山は倭にて芸事を学びます。冊封使をもてなす御冠船踊りに魅せられたためでした。
啓山は、三線と踊りに秀でた人物に成長すると琉球へ帰りました。そして、琉球芸能を後世に伝えるために後継者の育成に尽力しました。
琉球激動の時代、彼ら琉球の民が守った文化や芸能の数々は、今も大切に継承され沢山の人々を魅了しています。
また、平成元年に最上広域市町村圏事務組合は沖縄中部広域市町村圏事務組合と広域圏同士で初となる姉妹都市締結を行っており、現在も琉球の文化や芸能を学ぶなどの交流を深めています。