仁田山鹿子踊

仁田山鹿子踊の起因と由来について

仁田山集落に伝承保存されている「鹿子踊り」の起りや、来歴については古文書もなければ資料もなく、その由来など判然としない。ただ、お年寄り・老人達の話しとして今日まで語り伝えられるところによると、むかしのむかし、東の国より土賊討伐のため派遣された多才博学な大将軍が、仁田山の東にある「小倉山」(標高334m)に陣を張り「とりで」を築き、抵抗する悪者どもを討伐し、良民には塩などを与え、食用になる山野草を教え薬用草木・毒草・毒果物、生活する上に必要不可欠なことを伝授、農耕を普及するなど土着民の教化を図られたという。

恐怖におののいていた土着民も大将軍の温情に感泣し、悔悟反省が見え初め、日毎に勤勉な良民が増し、静穏平和な集落に変っていった。

そうしたことから、この地方に駐屯の必要もなくなり、大将軍は「みちのく」に転進することになった。その折り、大将軍は当時の「地頭」を呼び召され、「永いこの地の駐留で兵士達の疲労も烈しい。慰労も兼ね無礼講でIタ、離別の宴を開催するから、土着民の中で舞踊・歌曲のできる者を集めよ。」との命令だったという。

都に遠いこの辺地に、舞楽音曲もなかった「地頭」は、どうしたらよいものか苦慮困惑した。しかし、郷民に伝えねばならない。緊急会議を開いて協議を重ねたが良い知恵も浮かばず、積極的に参加するものもなければ、出演者もいなかった。

その時、日頃から頓智のよい青年「またぎ」助十郎が飛び出し、「恩顧ある大将軍の所望とあらば是非を問わず出場せねばなるまい。もし、これを拒否でもしたら郷民の恥辱。どんな災禍が降りかかるやも知れない、必ずやってお目にかける。俺にまかせよ」と引き受け、屈強な若者9名と語り合い。自宅に「薬用、魔除け」として保管していた熊・鹿などの「がい骨」を冠り、覆面として熊の毛皮・鹿の毛皮に山鳥鷹などの羽根やら草花を結びつけ、縫いぐるみにして着用、「おぼげ」という桶を肩から吊して腹に縛り、二本の「ばち」で打ちながら踊る急造の踊りを
考案。二人の美声を「地方」とし「ささら」という竹製の薬器を摺りながら合いの手を入れ、お盆の15日の吉日に鎮守社(現在仁田山部落の地蔵尊前)に、大将軍以下の将兵を招待、奇妙な装束で勇壮に乱舞奉納した結果は、拍手大喝采であった。大将軍は出場者全員に褒賞として酒肴料を賜り、厚く労をねぎらわれ。この踊りを急造、構成した助十郎に対しては「狩猟御免」の巻き物を下賜された。
“駐”本巻き物は仁田山伊藤有さん宅にある。

この急造の踊りにより「地頭」を初め郷民は共に面目をほどこし会を終り、万々才であった。尚、当年は天候が順調で、10日ごとに雨が降り、5日ごとに風が吹き、農作物は大豊作だったという。そのことから仁田山部落では、これを契機にお盆の15日に鹿子踊りを奉納。五穀豊じょう、悪魔退散、郷家安全を慶祝する習わしとして後世に伝承されている。

鹿子踊りの踊り手が背負う「幟り」に、“小倉山”“仁田山”の文字が染め抜いている。小倉山は大将軍が構築した「とりで」で、いわゆる聖域であった。

更に、その周辺で遊び戯れる鹿や獣の、烈しい角つき合いの状態から踊りの「ヒント」を得たといわれ、これを表徴するために書かれたものであろう。

「十日の雨」、「五日の風」は、農作物の成育に欠かせない天の恵み。順調な天候とは、やはり十雨、五風がなければならない。
そうしたことから、これを祈念する農民の心情を含めて書かれたものといわれる。

小倉山頂には、文字は読みとることが不可能であるが、約二十センチ位の角柱が、仁田山部落を眼下に見下ろす如く、現在苔むして鎮座している。部落の人々はこれを、「小倉の唐塔」と称し時折り参詣もしている。

「鹿子踊り」を開張する場合には、鎮守社地蔵尊を筆頭に奉納し、第二番目には、「踊り」を考案された助十郎さん。三番目は「地頭」宅と、今でもその順序を固く、「則て」として護り続けている。

他部落、式典等に出演依頼、遠方に出張公演をする場合など、昔は「巻物戴き」といって、必ず、助十郎さんのお庭で踊ってから他出したものと古老は語り聞かせる。

「鹿子踊り」の唄についても、戸沢藩邸で唄うもの、家老役宅、市内神社仏閣で唄うものなど、二十余種類もある。
郷土芸能として各機関より招聘され、出演したものは列挙にいとまないほどである。

仁田山 星川定雄(萩野小学校開校百周年記念誌「百寿」より)