萩野鹿子踊

萩野鹿子踊の歴史

起源等についてははっきりしてないが、文禄慶長の頃、既に今の様な姿であった事は、最上義光公が領内の鹿子踊を集めて踊らせた時、長幕の物最も良しと言った記録がある。最上氏の領内で長幕の鹿子は新庄地方の鹿子踊だけなので、凡そ360年程前ということになる。最上氏改易の後には、戸沢氏が入部したのであるが、二代正誠公が領内の鹿子踊を下屋敷に呼び集め、五穀豊穣領内安全を祈願して踊らせた。これを「鹿子の庭入り」と呼び、村々から庄屋が引率して互いに出来栄えを競い、 良く踊った組には殿様から御所望との声が掛り、この組は二度踊らせられた。これは大そう名誉な事としており、萩野領はいつも御所望されたとの事である。

明治2年以降はこの行事はなくなったが、藩制の頃は義務的な稽古のために御夜食米という手当を賜ったものである。旧藩主が東京に住む様になってからは、庭入り行事がなくなり次第に廃れた。明治13年夏、藩主墓参の折「鹿子踊見たし。」とて呼び出したが、萩野と金沢村の2組しか出 場しなかった。踊り終って正実公は「我が家の踊だから末長く無くしないで欲しい。」と付添いの元庄屋広野吉蔵氏に仰せられたとの事である。

荻野では其の後も踊り続けたが、金沢郷では跡を断ち鹿子踊といえば荻野だけになり、戸沢様帰郷の度に呼び出されて御前に披露する習慣となった。

常盤金太郎先生の初版の最上郡史に、歌詞等も挙げて紹介してますので、ご覧の程をお勧め致します。

前記の庭入の行事や御夜食米の制度もなくなった為でもあるまいが、稽古も薄れてきた時(明治28年)早 坂勘蔵氏が中心となり、広野吉蔵氏の熱心な指導と肝入 りで新しい組ができた。広野家文書(大友儀助氏篇)に 当時の方々の名前が出ているが、歌手として広野運吉氏 の名が見える。翁は若い時から歌が上手だったし踊りも 達者だった。天保3年生れなので明治28年には63才位で、私達は与左衛門爺様と親しんだ。96才まで丈夫でおられた。

また早坂勘蔵氏は小治兵衛爺様と呼ばれ、勝れた芸能 者で28年後にも数組の鹿子を育てられ、老躯ながらよ く新庄祭りに先達として行った。翁は歌舞伎・お神楽・ 囃子特に太鼓に秀でていた方である。

ついでにお神楽について記すと、萩野にはお神楽の獅 子頭が二つあり、古い方は渡部平四郎氏、新しい方は早 坂丑蔵氏が夫々保管しており、共に立派なものである。 さてこの爺様は、昭和5年春85才で逝かれましたが 弘化3年生れだった。現在、加藤実氏の組が爺様の育て 最古の組になるが、爺さんが良く。実程の踊手は滅多に 出ないもんだ。とべ夕褒めしていた。実氏の育成になる 連中が二組あり、古き鹿子踊の姿を受け継いでいる。

昭和41年9月、無形文化財として県の指定を受け、 ある時は県文化財を代表して県内は勿論、遠く弘前市で の東北芸能大会、栗駒自然公園の指定記念式典、大阪市 等には東北代表としてその古き姿を披露し、更に伊勢神 宮新穀感謝祭にも地方代表として奉納する等、連中一同 これが保存と練磨に精進している。

言い伝えによれば、ある年七頭の鹿子の群れが一頭の 親鹿子に連れられて、此の地方を踊りながら今の新庄市 稲舟、本合海の方より荘内の方に行ったが、梅ヶ崎・月岡周辺ではどこではぐれたか6頭になっていた。そのため金沢郷では6頭で踊り、萩野村のみ7頭で踊ったものだと、私の祖父が話しておった。祖父は梅ヶ崎久兵衛  (現斎藤久家)の次男で養子に来たのであるが、以前は 中鹿子をやった人である。

踊りの並び方は前後に3人ずつであったが、歌は荻野 と同じ歌であったという。よくお行(さんげさんげ)の 時に歌わされているのを聞いたものである。

鹿子の通った年は大豊作で、刈取った跡に出た稲にも 実が入り、粉煎用にできる小米が取れたという。

そのため、五穀豊穣・商売繁盛を祈って鹿子踊りする ようになったのである。庭入りの行事の時は、萩野郷中 の希望する者誰もが習っており、その中で上手な若者を 選んで出場したもので、黒沢の甚九郎爺様(出生年不明) は歌が上手で毎年出場したとの事である。

稿を改めて、伝統ある鹿子踊りのテーマ・装束等は勿 論、荻野の出土品や伝承などを基に、郷土の姿を遡って みたいと思っているが、私の心は、何時までも伝統ある ものを無くしないで伝えてほしいと念願することでいつも一杯なのである。

荻野 渡部弘見氏(萩野小学校開校百周年記念誌「百寿」より)