風流 新庄まつり 山車由来

3番運行
物語部門

風流新庄まつり 山車由来

沖の町若連囃子:山屋囃子若連

解説

今より約二三五年前の宝暦五年(一七五五)は全国的な大飢饉の年で、ここ新庄も大凶作にみまわれた。飢えや疫病で死ぬ人々が後を絶たず、それを気に病んだ、時の藩主正諶(五代)は、領民に活気と希望をもたせ、幸福を回復しようと翌、宝暦六年、戸沢家の氏神である天満宮の祭典を領内あげて行った。新庄まつりと呼ばれるようになったのは昭和二五年頃からである。
激動の時代(戊辰戦争、世界大戦等)には、山車まつりは何度か中止されたこともあった。終戦を待ちかねていたかのように、昭和ニー年山車まつりは復活されたが、この年引かれた山車は沖の町の一台だけである。そこに先ず沖の町の伝統を感じとっていただきたい。
場面は、十代藩主正令に島津公より嫁いだ桃齢院幸子(新庄の山車を一層華やかに演ずることとなった功績者)が、領内の山車まつりを正令と共に観覧し、満喫しているところである。また、松尾芭蕉「奥の細道紀行」三〇〇年を祝って、ご当地にも立ち寄った歴史を踏まえての、沖の町若連伝統の心意気をご披露致します。
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